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歴史

【戦後〜本土復帰】
フクギに包まれた赤瓦屋根の集落景観

【戦前】
得豊丸の進水(40馬力のカツオ漁船)

【戦後〜本土復帰】
現在の役場から見た赤瓦屋根と石積みが残る風景

【戦後〜本土復帰】
タカタンシから集落と西森を望む

【本土復帰〜現在】
林道が整備され島の南部が周遊できるようになった

【戦後〜本土復帰】
集落内の白砂の道と石垣

渡名喜島での人々の生活は、約3,500年前まで遡ることができます。およそ1,200〜 1,300年前には、西の底原や兼久原一帯の平坦地に集落が形成されます。13世紀になると渡名喜島にも豪族(按司)が出現し、一族を保護し祭政の安定を施すためにグスクを構えるようになりました。里遺跡はその時代の遺跡です。血縁的小集落(マキョ)は、いつの頃からか西森を背に北風を防ぐようにふもとに下山集合して現集落の東部分に集落を形成しました。その後人口増加に伴って西側の海浜地に集落が拡大していったと考えられています。

琉球王国時代、渡名喜島のウーンダ(大本田)にヒータティヤー(烽火台)が設置され、久米島→渡名喜島→慶良間諸島→首里王府の通信ルートの一部を担っていました。

明治29年3月に那覇・首里を除く沖縄県は5郡に編成され、渡名喜は久米島、慶良間諸島、鳥島、大東島とともに島尻郡に編入されました。明治41 年の島嶼町村制により、渡名喜島・入砂島をもって渡名喜村が成立しました。明治10年代頃から人口が増え始め、耕地拡大のために明治20年頃、地頭代(ジトゥデー)が住民の同意を得て全山の山林を焼き払い、山頂に至るまで段々畑が耕作され芋の栽培が行われました。それまで島は密林で覆われ、切り出された木々は火力の強い渡名喜薪(トゥナチダムン)として名声を得ていました。また養豚も盛んで渡名喜豚として広く知られていました。

渡名喜で近海鰹漁業が始まったのは明治39年です。大正中期には最盛期を迎え、村の基幹産業となり順調な発展をみせました。しかし、大正末期から昭和初期にかけて鰹節と豚の価格が大暴落し村の経済は大きな打撃を受けました。そのため昭和初期には、島の多くの男手が当時日本の信託統治領であったミクロネシアで鰹漁の漁夫として働き島に送金するようになり、その当時、渡名喜村の現金収入の大部分は南洋からの送金でした。昭和18年頃からは太平洋戦争の戦局により現金収入の枯渇を余儀なくされ、昭和20年3月に始まった沖縄戦は6月に組織的な終戦を迎えました。

昭和21 年に渡名喜村が復活し、戦後の復興が始まります。南洋諸島や沖縄本島からの引揚者が殺到し、終戦直後の人口は一時期2,100名を数え、豊富な労働力と援助物資を背景として、昭和30年頃には沖縄屈指の漁港となりました。しかし、昭和30年代後半の高度経済成長によって全国的に農漁村の過疎化が進行し、渡名喜村でも沖縄本島中南部への挙家離村が増え、過疎化が進行しました。人口は昭和26年の1601人から平成22年には452人と大きく減少し、過疎化と高齢化が現在の島の課題となっています。